刀の魂と絵の心

居合いの極意は斬るにあらず

居合いの極意は斬るにあらず


京都府◎井上氏の居合術
斬り込んできた相手よりも後から抜刀して勝ちを得る剣術、居合術。一刀必殺の剣術だが、その極意は「人を斬らないこと」にあるという。

JR西日本発行 広報誌ブルーシグナルより
特集”むきあう”「刀の魂と絵の心・井上孝博」

居合いの極意は斬るにあらず

居合いの極意は斬るにあらず

JR西日本発行 広報誌ブルーシグナルより
特集”むきあう”「刀の魂と絵の心・井上孝博」

京都府◎井上氏の居合術
斬り込んできた相手よりも後から抜刀して
勝ちを得る剣術、居合術。一刀必殺の剣術だが、
その極意は「人を斬らないこと」にあるという。
道場では常に真剣を用い、アトリエで墨彩画と向き合う井上氏を取材し、居合術の極意を尋ねた。

居合い術の起源

神社の木深い社、その一隅。台竹(だいちく)の上にのせた一節の青竹を前に円心流居合据物剣法六段、井上孝博氏が立つ。腰に差した刀、三ツ胴落シの柄(つか)に手をかけたその途端、あたりの空気が張りつめる。気合いを入れる声はない。静かに刀を抜き、斜めに一気に振りおろした。斬られた竹が草むらに飛び、刀身は鞘(さや)に納められる。一瞬のことだった。竹を拾い上げ、鋭く尖った切り口を見ると、真剣の凄まじさとともに凛として美しささえ感じられる。この、竹の据物斬り(すえものぎり)は”流水斬”といい、居合術の修行のひとつ。「居合術とは、剣道のように立ち合いのもとに試合する剣術ではなく、たまたまその場に居合わせた相手が、自分に対し、殺意をもって斬り込んでくるのを、相手よりも後から抜刀して勝ちを得るという剣術です。こちらから仕掛けることはありません」と、井上氏は説明する。 
戦闘様式が騎馬戦主体から歩兵戦に移った応仁の乱(1467~77年)の頃、集団で戦う歩兵戦、あるいはとっさの抜き打ちによる戦いでは、刀を抜いて相手を斬るまでの正確で素早い動きが要求されるようになった。抜刀のスピードとテクニックこそが戦場での己の生死を分ける大きな決め手となったのだ。そこで、抜刀の技術を高めるための抜刀術が生まれる。江戸時代には治世における武術として発展し、抜刀術は抜合術、居相術、居合術とも呼ばれるようになる。居合術は、山形藩に仕えたといわれる林崎甚助重信(1549年~没年不詳)によって編み出され、武士のたしなみとして各藩に伝えられた。林崎流を祖に多くの流派が生まれ、紀州和歌山藩の田宮平兵衛重正(田宮流)や、尾張藩に仕えたといわれる長谷川英信(直伝英信流)などが江戸初期の居合の達人として活躍した。円心流の居合術は、武術を母体としているのでこれらの流派とは、流れが異なる。


三ツ胴落シ

斬り手による裁断銘「三ツ胴落シ」
今回の取材で、流水斬を行い青竹を斬った刀。
江戸初期頃のもので、刀身(中直刃・ちゅうすぐは)は2尺2寸1分(67cm)。

初発刀(しょはっとう)
対座している相手が斬り込んできた時、素早く抜刀し、一刀で倒す。居合術の基本ともいえる型。

据物斬り「流水斬」

据物斬り「流水斬」
「流水斬(りゅうすいぎり)」と呼ばれる竹の据物斬り。台となる台竹(だいちく)を固定させずに地面に立て、上に一節の竹を置き、それを右袈裟(みぎけさ)に一気に斬り落とす。刃筋(はすじ)の正確さと振りおろすスピードが求められる。

極意は”鞘の内”

居合術では、相手との間合いや使う刀に対応するべくさまざまな技が編み出され、円心流には42手が伝承されている。技は、真剣を用いた厳しい稽古によって体得する。

極意は”鞘の内”

極意は”鞘の内”
 居合術では、相手との間合いや使う刀に対応するべくさまざまな技が編み出され、円心流には42手が伝承されている。技は、真剣を用いた厳しい稽古によって体得する。
 遠山の目付けという全体の気配を窺う目線、刀や足の運びである運剣・運足、抜刀のタイミング、納刀時の注意など、型に見られる動きにはそれぞれに意味がある。例えば、”突き構え納刀”という刀の納め方。相手を斬った後、刀を水平にし、倒れている相手に切先を向けたまま左手で鞘を寄せ、切先をつまみながら刀を納めるのだが、もちろんこれはただのポーズではない。倒したはずの相手が、刀を納めようとする自分に向かって死力を振り絞って抵抗しようとした時にもう一度突けるように備えた納刀の方法である。これは太刀の納刀の名残で、円心流特有のもの。
 むだを省いた一つ一つの動作が意味を持つということでは、居合術が起こった同じ頃に武士階級に広まった茶道の所作にも通じるものがある。生活すべてを修行と考える禅の教えを取り込んだ茶道では、所作の一つ一つに、万事をおろそかにしないという思いを込める。戦国時代の武士はその思いを茶室から戦場へ持ち出した。敵と向き合う時に生死に執着しないよう、陣内で一服の茶を味わい、心を無にし、戦いに挑んだ。
 「居合は人を斬るための術です。しかし、無闇な殺生をしないという仏の戒めと武士の情けから、居合の極意として”鞘の内”という思想が重んじられます。刀は鞘の中にあるまま事を治める、ということ。ただ、それを実践するには、逆にいかなる状況においても躊躇なく自在に抜刀できる技術がともなっていなければなりません。生死を賭けて向き合った時に平常心が保てないからです。そのためにも真剣で稽古するのです」と、井上氏は語る。

阿吽(あうん)

後敵(ごてき)を振り向きざまに片手で突く技。
①後敵の気配を察知する。
②抜刀。鞘の中の切先は背後の敵をとらえている。
③刃を下に向け、切先は敵ののど元に向いている。
④片手で突く。のど元を貫通。
⑤とどめ構え。とどめに備えながら生死を確認する。

上意打(じょういうち)

上意、すなわち主君の命により罪人を打つときの型。「何々の科(とが)により斬首!」と言い渡すと同時に斬り付ける。
①心を沈め、抜刀の準備を整える。
②抜刀し、刃筋じを決める。
③初発刀片手横一文字。こめかみへ一撃を加え、相手の動きを封じる。
④⑤右袈裟にて斬首。

円心流剣法「天地人三巻」

円心流のさまざまな技が伝授されている秘伝の巻物。

*円心流
円心流は今から400年程前に、北面(ほくめん)の武士であった犬上左近将永勝(いぬがみさこんのしょうながかつ)が、一派を起こした。幕末に入り、小橋庄兵衛(こばししょうべえ)にて神道無念流が取り入れられ、明治には小橋林五郎(りんごろう)にて四国高松藩の高松御流儀(たかまつごりゅうぎ)が取り入れられた。宗家は昭和に入り小橋日感(にっかん)から小橋日喜(にちき)へと継がれ、現在に至る。

型は「師礼・刀礼」から始まる。いつでも斬り込めるよう、腰を軽く浮かして座る。手のひらが上を向いているのは「あなたに殺意を抱いている」というサイン。逆に、下向きに膝に乗せている時は殺意がないことを表す。

突き構え納刀(つきがまえのうとう)

①切先を相手に向けたまま鞘を迎え、切先をつまむ。太刀の納刀の名残。
②刃を上に向け、鯉口(こいぐち)に入れる。
③右手合掌、左手砂防ぎ。攻撃の自由度を保つ。また、砂をかけられて鞘が詰まらないよう、左手で防いでおく。

鍔に、紙に描く武の心

武士と刀

 刀剣は、時代や戦術の変化にあわせてその形や価値を変えた。古墳時代から奈良時代までの直刀を「大刀(たち)」、平安時代以降の彎刀(わんとう)を「太刀(たち)」と書いて区別する。

鍔に、紙に描く武の心

武士と刀

 刀剣は、時代や戦術の変化にあわせてその形や価値を変えた。古墳時代から奈良時代までの直刀を「大刀(たち)」、平安時代以降の彎刀(わんとう)を「太刀(たち)」と書いて区別する。平安時代の太刀は、馬に跨がったまま抜いたり振り回しやすくするために刀身に大きな反りを持たせている。大刀・太刀ともに、刃を下に向けて腰に吊り下げた。1274年(文永11)、蒙古が4万の大軍を率いて九州に攻め込んできたが、その時、蒙古軍が身に付けていた胴鎧(どうよろい)に太刀の刃がたたず苦戦したため、慌てて鍛刀法を工夫し、身幅の広い厚みのある刀に改良した。この時代、鎌倉から南北朝期にかけては名刀が多い。また、戦国時代の集団歩兵戦では、刀はいわゆる「打刀(うちかたな)」という片手で使えるほどのものが主流となり、抜刀の速度を高めるために刃を上にし、腰帯に差して歩くようになる。
 1588年(天正16)、戦国時代にピリオドを打った豊臣秀吉は、武士と僧、庶民を分離する策として刀狩令を発した。それ以降、刀の所有は武士の特権となり、刀は武士の魂とする観念が生まれる。合戦のたびに量産し使い捨てられていた数打ち物は需要が激減し、刀工たちは武士の注文打ちを鍛造するようになった。
 今よりも治安が良かったといわれる江戸時代には、武士は武器である以上に武士たるプライドを示す象徴として存在した。江戸中期になると、職人による優れたデザインの鍔(つば)や目貫(めぬき)が用いられ、刀に精緻な美意識が投影される。泰平の世の武士たちは、参勤交代で地方と江戸を行き来するたびに、江戸で流行の鍔を求めて刀につけたり、土産に買って帰ったりしていたようだ。そして、幕末になると再び実用刀の需要が増え、南北朝時代にみられる剛刀がつくられるようになる。

刀の手入れ

心を静め、刀を手入れする。ポンポンと刀身につける打ち粉は、内曇(うちぐもり)という最終段階の砥石で刀を研いだ研ぎ汁を乾燥させ、乳鉢で摺り、綿と絹で包んだもの。やわらかい布でぬぐう。後ろの掛け軸は、潜龍(せんりゅう)という居合の型から井上氏がインスピレーションを得て描いたもの。

(上)肥後拵(ひごごしらえ)

江戸初期、肥後藩の網川家で好まれた拵(こしらえ)。拵とは刀剣の外装のこと。藩士たちの間にも同じ拵が流行した。

(下)天正打刀拵(てんしょううちがたなごしらえ)
射楯兵主(いだてひょうず)神社所蔵の写し。室町時代、刀を腰に差すようになった頃のもの。

御貸し刀

刀身は大段平(おおだんびら)という長刀(ちょうとう)で、南北朝時代のもの。拵は安土桃山時代。いわゆる数打ち物と呼ばれる城からのレンタル刀である。ふだんは城の武器係が刀と拵をばらして倉庫に保管しておき、いざ戦が始まると、刀を持たない雑兵たちに貸し出していた。刃渡りは2尺8寸(84.9cm)、敵を威嚇するには十分な長さ。腰に差さずに担いでいたと思われる。

柄、柄にはめ込む茎(なかご)などに通し番号の「二」と書き込まれている。おそらく「三」や「五」などの刀もありkこの数字を合致させて刀と拵を組み立て貸し出していた。

黒漆合口短刀拵(くろうるしあいくちたんとうごしらえ)

室町初期、応仁の乱の頃の短刀。鞘はほおの木で黒漆を塗っている。栗形(くりがた)、返り角(かえりづの)、鞘の先端部分に和牛の角が使われて。栗形は大きく、~口に極めて近いのが、拵の古さを物語る。返り角は、差した帯にひっかけてストッパーの役目を果たす。

備州長船住春光(びしゅうおさふねじゅうはるみつ)作「短刀」


寸法は5寸7分(17.3cm)。室町末期。茎(なかご)に不動明王の姿が刀匠の手で彫り込まれている。注文したであろう武将の、神仏に加護を願う心境が伺える。


自然と向き合う心

稽古の前に、井上氏は精神統一を行う。正座し、両手を伸ばして、宙に大きな円を描く。これは”一円相”と呼ばれる円心流特有のもので、円は大宇宙を表現する。

自然と向き合う心


稽古の前に、井上氏は精神統一を行う。正座し、両手を伸ばして、宙に大きな円を描く。これは”一円相”と呼ばれる円心流特有のもので、円は大宇宙を表現する。自然宇宙と一体となり、生死にとらわれず、己の雑念を無にして仏心のままに、剣の理に従って抜刀する心得を有つために、行うそうだ。「呼吸を静かに深くして、心を丹田という臍(へそ)のやや下の部分に沈めます。呼吸をゆっくりと整えてから抜刀する、あるいは筆を運ばせる・・・その、対象に向き合って一気にぶつかるタイミングは、居合も墨彩も同じですね」
 井上氏は絵を描き、また教えることを本業としている。アトリエで絵を描く時間は、稽古の時の形相とは打って変わって楽しそうな表情を見せる。まるで、小鬼が笑ったような無垢な顔だ。「もうひとつ、居合と墨彩に共通するところは、自然に従い、その恩恵にあずからなければできないという点。刀も、据物斬りに使う竹も、絵を描く墨も和紙も、顔料も筆も、道具はすべて自然からいただいたもの。刀の鍔には、四季の草花や動物や虫、月、雲などが図柄としてあしらわれています。それは日本人の自然に対する豊かな感性の表れであり、四季に育まれたデリケートな心が読み取れます。そんな、日本人ならではの自然に対する深い情緒を持ち続けて、刀を、絵筆を握っていたいと思います」
 武という字は「戈(ほこ)を止める」と書くと古くはいわれた。戈とは剣に長い柄をつけたもの。すなわち、武は平和を保つためにある。それが武士(もののふ)の精神であり、”鞘の内”という居合の極意につながる。絵の中を駆け回るあどけない小鬼の顔にも、そんな願いが感じ取られた。

文:松井健太郎 取材写真:篠原幸男、今田修二 JR西日本広報誌ブルーシグナル より

※当サイト内で使用されている文章・画像等の著作権は井上孝博(絵師:無い虚几)に帰属します。無断使用等は固く禁じます。
Copyright All Rights Reserved
All trademarks and copyrights on this page are owned by Takahiro Inoue.